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ながれながれて。
もう一生、書かないのかなと思っていた。
もう一生、本なんて、読まないのかなと思っていた。
公募には相性がある。公募には、という部分を言い換えるとすれば、出版社の思惑に、違いがある。
電撃と、たとえば小説現代。
スターツと、たとえばすばる。
どちらがどうというわけじゃない。ただ、何を求めているかは、明確に違う。
298円のピザを、魚焼きグリルで焼いてたべる。おいしい。ちゃんと小麦粉は国産だし、チーズは脳内麻薬をちゃんを出させる。
1,000円のスペイン産ワインは、気持ちをぽやっとさせるには十分だし、
Spotifyのおすすめプレイリストには、ちゃんといい曲が集められてる。
個人的な思いを言おう。
受賞しないけど、最後まで行く審査は、それは読んだ人の寄り添う思いだ。
それに応えられるかどうか、それは自分にかかっている。
がんばれという気持ちが伝わってくる。
集英社のノベル大賞で、四次まで進み、結果三次落ちだった講評で、
「困惑しています」というのがあった。
机上の理論では、こうすればという具体的な考えはあるものの、著者の考えるかたちはそうではないのだということは理解でき、どう受け取ればよいのか、非常に困惑しています。とあった。
その一字一句を今でも色あせることなく、写真のように覚えている。
すごくありがたかった。ノベル大賞に出す作品ではなかったのだ。それは私のダメなところだ。自覚している。
ただし次の年に出した4作は一次ですべて落ち、頂いた講評をみると担当者は同じひとりで、けちょんけちょんにけなされていた。
困惑しています、と書いてくださったあの方がどなただったのか、私にはおそらく知る由はないけれど、あの言葉を胸に、私は今後きっと、ノベル大賞におくることがあるとすれば、それは最初からノベル大賞へむけて書いたものであるはずだ。
もう二度と書けないと思っていた。
でも、なぜか今日、書いている。なぜか昨日も、一昨日も、書いていたし、きっと明日も明後日も書くだろう。
めちゃめちゃに苦しみながら。
楽しんで書くことができる人も少なからずいるだろう。でも私はくるしい。とてつもなく苦しい。
『それがどうしても書かなくてはならないものだったのか、それがどうしても伝わってこなかった』
小説現代でいただいた講評のひとつだ。
私の指標は、きっとここに尽きるだろう。
プロになる覚悟がないなら、一作だけの評価を得たいなら、公募におくらないでくれという言葉を、割と何度か見た。その気持ちはわかる。
ただ、自分の人生の記録として、送ろうという人がたくさんいることが、それも理解できる。
果たして自分はどちらなのか。
立場が、役割が、自分をそのように形作る。
親は、はじめから親であるわけではない。
子供をうんではじめて、親になっていく。
作家というものも、そういうものだと感じる。
ただ、あまり時間が遺されていない。明日にも書けなくなるかもしれない。
そんな気持ちは常にまとわりつく、激しい焦燥の渦を、私に突きつける。
気を抜かずとも、巻き込まれ続けている。
それでも、流れに流れて今日を迎えたこのひとつひとつの偶発的な出来事に、感謝せずには、いられない。
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