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パーテルノステル《全文公開》
もこちゃんのいた部屋に入った新しい女の子は、黒髪のきれいな子だった。いかにも清楚で、生まれてこの方ヘアカラーさえしたことないんじゃないかっていう、瞳の大きいナチュラルなまつげの子。
肌がほんのり白くって、小さな女の子みたいに頬がうっすらとピンクだった。そのくせ細い二の腕に不釣り合いなふっくらとした胸もとがなんだかアンバランスで、これは当たりだと思った反面、こんな子がどうしてこんないかがわしい物件に――と俺は心配になる。部屋に備えつきの赤いテカテカしたカラーボックスがいかにも似合わない。
ここはパーテルノステル。知る人ぞ知るのぞき部屋だ。ここに通い始めて三年経つ。
さくらトラムの駅を降り、いかにも女子学生が好みそうな甘ったるいシュークリーム屋の角を曲がると途端に人気のない道になる。
三年前、大学に入ったばかりの俺は、新歓コンパで隣に座った知らないやつのゲロの香りもわからなくなるほど泥酔して地下鉄に乗ると、終着駅で車掌に起こされた。終電が終わったといわれ否応なく改札を追い出された俺はこの駅に降り立っていた。公衆便所を探して公園を探し当てると、個室の中で変わったチラシを見つけた。
《乗り降り自由の女の子たちの部屋へようこそ。めくるめく妄想の世界へ》
――なんだそれは。
ふらふらと裏の小さな地図に誘われてたどり着いたパーテルノステル――そこは特殊なのぞき部屋で、窓の向こうにはこぎれいな女の子の部屋が集まっていた。
キッチンも風呂もなく学生寮みたいな小さな部屋で、おそらく共有スペースが別に用意されているんだろう。とにかくこちらののぞき窓から、隅々まで見渡せる程度のこじんまりした空間で、どういう仕組みになっているのか、部屋そのものが循環式エレベーターになっているらしい。パーテルノステルは二十世紀前半にヨーロッパで人気があった様式だとかで、常にゆっくりと動き続ける乗り降り自由の観覧車というところだ。
循環する七室のかご部屋がゆっくりと動いていく。同じ女の子をのぞいていられる時間はおよそ三分。そのまま待っていればまた次のかご部屋が現れるという仕組み。女の子はなにも知らないのか、普通に住んでいるだけのようだから部屋にいないときもある。
このイチかバチか感が、まあ面白いと言えば面白い。通っていればどの部屋の子がだいたいどの時間にいるかはおよそ予想がつくようになってくる。
二〇分も待っていれば一周する。
俺らが入れられる狭い部屋には椅子しかなくて、明かりをつけることは許されない。初めて入ったとき、ポケットを探られてタバコとライターを取り上げられた。
「まあ一度体験してみてくださいよ。タバコのことなんてすっかり忘れていますから」
気づいたら三時間経っていた。ああそういえば、部屋にあるのは椅子だけじゃなかった。秒針が鳴らない無音ムーブメントを使った丸い時計がのぞき窓の上に設置されている。文字盤には蛍光塗料。窓は縦に細長いミラーガラスが貼られているんだろう。
匂いなどしないはずなのに、しどけない姿で大きめのタオルケットにくるまって寝ている女の子を見ていると、香りまで感じる気がして三分など一瞬で通り過ぎていく。息をひそめ、胸が高鳴るのを必死で抑える。この興奮に慣れることはあまりない。
客の入るのぞき部屋が全部で何部屋あるかは知らない。俺はいつも301に入る。部屋の移動は自由だが移るたびに別料金がかかる。部屋には鍵がかかっているので一度受付まで戻らなくてはならない。もう少し同じ子を見たいと部屋を追いかけて上にあがったりする初心者がいるが、そんなことをするよりももう一周回ってくるのを待つ方が明らかに効率がいい。
†
異変が起こったのは今から三カ月ほど前のことだ。いつもより早くパーテルノステルに着いた俺は、受付の男がいないのに気づいたが、入口は開いていた。会計はいつも帰るときなので、そこに無造作に置かれていたチケットを勝手にちぎると、受付の中に腕を伸ばして壁にかけられた301の鍵をとった。狭い階段を上っていつもの部屋に入る。
この時間、かご部屋にいる女の子たちはまだ少ない。学生なのか若手のOLなのかは知らないが、彼女たちはだいたい夕方一度帰ってきて、着替えて出かけたりネイルの手入れをしたりする。
鏡の前でペディキュアを直す金髪ショートの子は、いつもホットパンツをはいていて下着は黒いレースだ。股のすきまから見える黒レース、手を伸ばせば一メートルもない。この時間は狙いどきなはずだった。
のぞき窓の向こう、男子禁制のはずのかご部屋に、俺は男の姿を見た。
――あれ?
淡いピンクのモコモコしたパジャマを着るもこちゃんの部屋だ。赤いテカテカしたカラーボックスの似合う今どきの子だ。
男がこちらを振り返る。まっすぐこちらに歩いてくる男の顔を見て、俺は冷やっとした。
見つかったのか? いやそれよりこの青ひげの男は、そう、受付でいつも咥えタバコのままモニターから目を逸らそうともせずにチケットと鍵を渡すあの男だった。
男はこちらに腕を伸ばした。ミラーガラスの枠の中になにかはめ込んであるのか、なにかをバカッと外す音が壁越しに響く。俺はすべてを悟った。その手に小型の盗聴器のようなものが握られている。
男は天井中央の電球をいじりながらなにかを確認すると部屋ごと視界から消えた。隠しカメラでもあるのか、あの男がいつも見ているモニターはこちらからは見えないが、もしかするとすべての部屋をのぞいているのかもしれない。
一瞬見てはいけないものを見てしまったのかと肝を冷やしたが、すぐに俺は思い直した。こんないかがわしい商売をしているんだ、部屋の女の子を監視していたところで別段どうってことはない。いやしかし、俺に残っていたかすかな良心が心をざわめかせた。
聞いたことがある、パーテルノステルに住んでいる彼女たちの出入口は一カ所しかないと。しかもあの速度でしか動いていない。俺は慌てて部屋を出た。鍵を閉めて入口へ戻る。
男がどこから入ったかはわからないが、俺がいた301はパーテルノステルの昇り側にある。あの男が降りるまでにまだ時間はあるはずだ。落ち着け。
店の入口に戻ると俺は、勝手に破ったチケットの破り口をきれいに整えてわからないようにし、鍵を受付内側の壁に戻すと入口を出て物陰に身を隠した。
十分後に青ひげの男が降りてくる。腰に吊りさげた鍵をじゃらじゃらとさせながら、受付横の扉を小さな鍵で開けて入り、なにかを引き出しにしまってそのまま入口に向かってきた。入口の鍵を開けようとしてすでに開いていることに気づき、一瞬手を止めたがそのまま受付へ戻っていく。
俺は営業開始時間が五分すぎるのを待って入口扉から中へ入った。さりげなく「301」と口にして受付に手を乗せる。いつもはこちらを見ない青ひげが、じろりと見るのに俺は気づいた。
「早くしてよ」
男は黙って俺の手にチケットと鍵を渡した。
その日は椅子に座ったまま、ただもこちゃんが帰ってくるのを待った。彼女は夜遅く戻ってくると誰かに電話をしてそのまま寝てしまった。
彼女が寝付くのを確認して、俺はパーテルノステルを出る。やばい、金が続かない。親から送られてくる仕送りはすべて使い込んだ。
工学部に通っていた俺は、第二外国語の単位を落としていて追試を控えていたが、試験の前の日も夜間の突貫工事のバイトに出かけた。
†
俺は青ひげを待ち伏せして受付に続く裏口を見つけた。暗証番号を押すのを、遠目にしっかりと焼き付ける。
受付のモニターは八分割されていて、すべてがもこちゃんの部屋だった。他の部屋には興味がないらしい。映像を見る限り寸分の隙もなくカメラが設置されている。引き出しを開けるとそこには小さなテープがずらり、日付と時間が書かれていた。
男は出勤するとすぐに営業開始までの数十分をもこちゃんの部屋で過ごしているようだった。一本を適当に抜き出して聞いてみる。なにも聞こえない。ボリュームを上げるとスースーという寝息のようなものが微かに聞こえてきた。
いかれている。急いでテープをしまうと301の鍵をとり、受付の小さい窓から体をひねり出して階段を上った。
青ひげは、赤いテカテカしたカラーボックスを開けると、下着をいくつか取り出して自分の体にこすりつけていた。よだれを指にとって下着のマチに塗りつけ、にやりと上から見おろしてきれいに畳んで引き出しを閉める。
俺の心臓は異様に鳴り続けた。何度も何度も時間を確認するが、目に時刻が焼き付かない。
どうすればいい、どうすればいい、ウィキペディア先生しか頼ることのない俺は、その日ひと月も洗濯していないシーツの上で寝転がり「盗撮」と検索して、わいせつ、更衣室、公衆便所、駅の階段……とだらだらと読んでいった。
パーテルノステルは部屋の女の子にとってはたぶん賃貸契約をしている部屋だから、これは住居不法侵入ってことにもなるんだろうか。
『わいせつ行為以外の例では、ロッカーなどの暗証番号を設定する操作パネルを撮影するように小型カメラを取り付け……』
そこまで読むと俺はひやりとして、スマホを充電器に戻して寝た。
†
その三日後だった。いつものようにパーテルノステルを訪れた俺は、青ひげの顔からすっきりひげが落とされているのに気づいた。
チケットと鍵を渡すその指の、いつも汚らしい爪がきれいに揃えられている。俺の本能が「やばい」と告げた。こいつはなにかやる。男はいつものようにモニターから目を逸らさなかった。
もこちゃんに知らせなければ。もうそれしか考えてなかった。郵便受けのありかを探したが、どうやら郵便物は管理人がすべて手渡ししているようで、住人用の出入口は厳重に管理されていた。彼女が学生なのかはわからないが、毎日帰ってくるということは毎朝出かけているはずだ。
次の朝、王子の駅で待ち伏せた俺は、もこちゃんを見つけた。近づこうとすると軽蔑するような目でちらりと見て、足早に前を通り過ぎる。どうしても知らせなければならない。
夕方まで時間を潰して裏口へいくと四桁の暗証番号が変えられていた。焦って正面入口へ向かう。
――「本日休業」の貼り紙
まずい、すごくまずい、とてつもなくまずい気がするのに、俺はなにもできずに立ち尽くして、その日はとぼとぼと家へ帰り着いた。
†
次の日、俺はいつもより二時間も過ぎた頃にやっとパーテルノステルに向かった。「301」そう告げた俺の顔を、数ミリ生え始めた青ひげがちらりと見る。俺はぞくっとして階段を上る。
もこちゃんは部屋にいた。布団をかぶったまま、明かりもつけずにじっともぐりこんでいる。ずっと泣いているのか、辺りにティッシュが散らばっている。音は聞こえないが携帯が鳴っているんだろう、薄暗がりの中で着信ランプが延々と点滅していた。
俺はその日三時間そこにいた。もこちゃんは一度起き上がって水を飲んだ。前を通り過ぎていくその目が死んでいる。腕に生々しいひっかき傷と、赤く腫れた頬に涙の跡が光っていた。俺はそのまま部屋を出て、二週間パーテルノステルには行かなかった。
次に行ってみると、もこちゃんの部屋には誰もいなくなっていた。残された赤いカラーボックスがやたらに目立つ。
俺は遠いシリアの国で、女性が大量虐殺された記事を読んだ時みたいに、へー、そうなんだ、悲惨だけれど、だってどうにもできないしね、って椅子に座ってベルトを外した。
†
特に目当ての女の子もいないのに、その後もパーテルノステルに通った理由は自分でもわからない。ただなにか、自分の胸の中のちくちくとけば立ったざらつきが、俺に靴を履かせてバイトに向かわせた。
追試は終わっていた。留年が決まったその日も、俺は万札を握りしめて家を出た。
黒髪のきれいなナチュラルなまつげの子がその部屋に入ったのは、学校にもすっかり行かなくなった頃だった。
シーツは茶色がかった薄いベージュ。部屋に見たことのない観葉植物が置かれていた。白いカビが生えたみたいな葉っぱに小さな青い花。その観葉植物はブルネラというらしい。清楚な青い花は、黒髪の上品な彼女にとてもよく似合った。
花言葉は『冬の天使の涙のあと』、もこちゃんの涙を思い出し、俺は少し苦しくなりながらも、新しいこの子をブルネリーと呼ぶことにした。
彼女は部屋に帰ってくるとその鉢に向かって大切そうになにかを話しかけていた。土の上に、どこかで見たことのあるかわいらしい羽のついた雪だるま人形がふたつ、ショートケーキの上に突き刺された柊の葉っぱのように飾られている。小さな雪だるま人形は、からだを寄せ合って白い網目の生えたような葉っぱを見上げていた。
彼女はたまに、その葉っぱの裏まで丁寧に白い布地で拭いた。呼びかければ育つっていうけど人が実際にやっているのを見たのは初めてで、なにかこう、まあこの子なら似合うからいいか、そんなことを俺は思った。
王子の駅で待ち伏せし、その子が商店街の花屋で液体肥料を買うのを突き止める。ブルネリーは小さなハーブも育てているようで、よく透明なガラスポットでハーブティーを淹れていた。
彼女はいつも電話がかかってくると、俺の目の前で膝を抱いたまま長電話をした。そう、こののぞき窓のミラーガラスの前においしそうな脚を見せつけながら、腿をぴったりと閉じて楽しそうに笑顔を浮かべながら話す。瞳の色は日本人には少し珍しい緑がかった茶色。
こんなにきれいな黒髪をしているのに、色素が薄いのかその頬にはうっすらとそばかすが浮かんでいる。
俺も床に座りこんで彼女のそばかすを数えるようにして、ハーブティーが自然に冷めていくのに身を任せた。
ブルネリーの部屋に小さな家庭用のプラネタリウムがあると気づいたのはそれからしばらくしてからだった。彼女は床に座りこみ、俺の目の前で姿見に背中をぴったりと寄せたまま、人工の星が天井に小さく映るのを眺めていた。明かりの消された室内に、この薄いガラスに隔てられた、暗闇と暗闇で隣り合う小さな箱。
彼女の艶やかな黒髪がすぐそこにある。瞳は見えない。膝を抱え、上を仰ぎ、そしてその光を眺めながらなにを思っているんだろうか。いったい何周したんだろうか――次にその部屋が現れたときには別のスタンドの明かりがついていて、ベッドに横になったブルネリーの影を壁に映していた。
たまに彼女は電話しながら真剣な目つきをした。口元を閉じて、ただ「うん、うん」と頷きを繰り返す。一度だけ彼女が目の前で泣いたことがある。すぐに電話を切って背中を向けてしまった。布団にもぐりこむ彼女を見て、俺はもこちゃんを思い出した。
パーテルノステルが閉まっている日中の時間帯に、俺はまたひとつ新しいバイトを入れようと決めた。王子の河川敷の花火会は十月だ。たしか水門の奥から観れる有料チケットがあるはずだ。あれはいくらだっただろうか……。
ここから出してあげたい。
その瞬間から俺の心はそれでいっぱいになった。
†
青ひげの男は相変わらずだった。営業時間の少し前にやってきてはしばらく留守にして、開始直前に戻って入口を開ける。モニターを見つめたままチケットと鍵を渡すだけ。
そこになにが映っているかはわかっている。あの清楚な花に話しかける黒髪のブルネリーが、青ひげの手の届く距離にずっと住んでいる。
裏口の暗証番号は何度か試してみたが開けることはできず、そちらから侵入するのは諦めていた。彼女が泣いてまたここを出ていってしまう前になんとかしなければならない。
しばらくたって、青ひげがまたひげをきれいに剃り落とした。受付の小さな窓から鍵を渡すその指先を俺は睨んだ。爪がきれいに切られている。とうとうこの日が来てしまった。背筋に一本の汗が流れる。
ブルネリーが部屋の電気を消すのを待って、こっそり忍ばせたポケットのライターを取り出すと、カチカチとミラーガラスのこちら側で灯した。
確証はないが、ミラーガラスの場合のぞかれる側が明るくて、のぞく側が暗いことが大前提だと聞いたことがある。勘のいい彼女はすぐに異変に気づいて、明かりをつけてこちらを凝視した。近づいてきてのぞき込む。そしてまた電気を消すと目の前に戻ってきた。
彼女はすぐそこに立っている。そうだ気づいてくれ、そのままライターをカチカチと点けたり消したりを繰り返す。彼女の手がミラーに触れた。ゆっくりとさする。次の瞬間携帯のライトでこちらを照らした。
まぶしさにぎょっとなる。そうだ、それでいい、気づいてくれ。俺はここにいる。そこから出るんだ。俺は知っている。あの男がすべてを監視していることを。君のいない間にその部屋に入り込んでなにをしているかを。俺の顔がもし見れるなら見るんだ。そして気づいてくれ。お願いだ。
その日俺は朝まで駅で待ち伏せた。ブルネリーが歩いてくる。黒い髪にブルーのシャツ。ブルーのデニムに、白いスニーカー。透明な使い捨ての傘を差していても、彼女は目を見開くほどにきれいだった。勇気を振り絞って声をかける。
「あ、あの、パーテルノステルに住んでいる人ですよね」
いつも見ています、とは言えない。
声をかけたはいいものの、続きを考えていなかった。
「パーテルノステルって?」
ブルネリーは不思議そうに聞き返してきた。しまった、その名前はもしかすると住人は知らないのかもしれない。
「ああ、ごめんなさい、じつは僕の知り合いが、あなたのいる部屋に以前住んでいたんです。それで、あの、突然こんなこと言うと怖がられるかもしれませんが、部屋でなにか変わったことはありませんか?」
いぶかしそうに俺の目の奥を見る。底から砂金でもすくおうとするように、俺の眼球の底をえぐった。そしてさらっとこう言った。
「ええ、じつはそうなんです。でもどうしてそれを?」
「ああ、よかった」
俺はほっとした。
†
ブルネリーは朔良明日香(さくらあすか)といった。学生かと思ったがデザイン会社に勤めるOLで、俺より五つも年上だった。
その日は休みらしく、俺たちは駅から離れた喫茶店に入って人気のない二階の隅に座る。
「出かけるところだったんですよね」
ぼくがそう詫びると、ブルネリーは少しためらう様子を見せてから話し始めた。
「友達が入院しているんです」
「お見舞いでしたか。……呼び止めてしまってすみません」
踏み込んでいいのかわからなかったが、見舞う先のその人の容態をさりげなく訊ねてみる。ブルネリーはそれには答えず、手にしたカップを握る手に力をこめた。
「最近部屋から変な音がして、昨日も彼女に電話していたら不安になって泣いてしまって……。一人でいるのが怖くって彼女に会いに行こうと思っていたところでした」
見定めるように俺に視線を向けてから、ひと呼吸置いて饒舌に語り始めた。
青ひげの男は部屋に侵入しているだけではなく、彼女をストーキングしているようで、暗い夜道をつけられたり下着がなくなったりするという。警察にも届けたが相手にされなかったと。
「なにか証拠でもあれば、もう一度話をきいてくれると思うのですけど」
すがるような目つきで俺を見る。狭い喫茶店の丸テーブルの下で、ブルネリーの膝が俺の膝にこつっとあたった。気づいていないのか、俺はどぎまぎとしながら紙の手拭きでテーブルを拭く。
彼女はパーテルノステルがのぞき部屋になってることさえ知らない。俺がすべてを知っているといっても、一緒に警察に行くのはためらわれる。
「本当に、怖いんです。もうどうにか、なってしまいそう」
ブルネリーはそう言って涙を浮かべた。
パーテルノステルはやはり賃貸だった。しかし信じられないほど格安だったのだという。
詳しく聞いてみると部屋が動いているエレベーター方式で、非常に旧式のために入口で必ずしばらく待たなければいけないという条件の他にも、水回りはすべて共有スペース。
それらを考えればなるほどと思える物件で、お店を持ちたくてお金を貯めていた彼女は、しばらくならと我慢してそこに住んでみることにしたという。
「引っ越してきたばかりですし、すぐに新しいところに移るお金も今はありません」
「明日香さん……っ! お金なら、お、僕がなんとかしますから」
膝が離れて彼女は立ち上がった。
「ご親切にどうも。わたしもう行きますね。やっぱり警察に相談してみます。誰かが忍び込んでいるのなら、なんとか証拠をつかんでみます」
「危険だからやめたほうがいい!」
そう言うのも聞かずにブルネリーは出ていった。
もこちゃんの体についていた傷を思い出す。だめだ、真向からあの青ひげをつかまえようなんて、無理に決まってる。あのきれいな細い腕のブルネリーに傷がつくなんて考えたくない。
俺は覚悟を決めた。青ひげはひげを剃り落とした。その爪もきれいに整えられている。
今晩か明日か、絶対にあの男はもう一度やる。俺は今日、あの男を止めなければならない。彼女を守らなければ。だけど裏口の暗証番号は変わってしまっている。正面突破しかない。
俺は一度家に戻ると、バイト先から持ち帰っていた鉄パイプを持ってパーテルノステルへ向かった。
青ひげの出勤時間を待つ。男は裏口から入り、受付に鍵をかけて奥へ向かった。俺は正面玄関にガムテープを貼ると、持ってきた鉄パイプで叩き割った。音は意外なほどしなかった。腕を突っ込んで鍵をあけて中へ入り、男の後を追う。
青ひげは狭い階段を上り207へ入っていった。ドアに耳をあて、聞き耳を立てる。ゴトゴトと物音がしてしばらく経つと静かになった。意を決してドアノブをそっと握るが扉には鍵がかかっている。
くそっ。中からは一切音がしない。どうなっているかはわからないが、目的の部屋はわかっている。
俺は慌てて今来た階段を駆けおりて受付へと向かった。こちら側は下り側、急いで301へ回れば、男がブルネリーの部屋に入り込んだなら確認できるかもしれない。
受付で301の鍵をつかむ。横には207の鍵もかかっていた。
あいつはマスターを使っているんだろう。腰に下げたじゃらじゃらとした鍵束を思い出す。207の鍵もポケットにつっこむと俺は301へ走った。
いらいらと時計を確認しながらブルネリーの部屋を待つ。
次だ、次がブルネリーの部屋だ。
赤いカラーボックスの部屋が現れた。青ひげの男がそこにいた。クローゼットを開けて中へ入り込もうとしている。
俺は確信した。ブルネリーが帰ってくるまでに、奴を仕留めなければ。
俺はそこを飛び出して207へと走る。一度一階へと駆けおりて、逆側にある別の階段を上る。
鍵を使って207へ入ると、のぞき窓はすっかり外されてぽっかりと穴をあけていた。やはりここから入り込んでいたのか。
それなら、かご部屋のミラーガラスはきれいに外れるように細工がされているはずだ。こちら側に部屋が戻ってくるまで時間もない。鏡の枠の外し方を確認しておかなければ。他の部屋が現れる。俺は手を突っ込んで四隅に指を這わせた。
どうなってる? 枠は木ではなく、金属でできているようでかなり重かったが、浮かせてみると簡単に浮いた。深めの金具で沈み込ませているようだ。
部屋がどんどん下へと動いていく。暗い中、頭をもぐりこませて必死に視界を凝らす。どうやらエアコンの取り付け金具みたいなもので固定されているように見えた。思い切ってつかんで上に持ち上げると、がたっと枠が外れた。
できた! 枠を部屋の中に落としそうになるのを慌ててつかんで元に戻すとその部屋をやりすごした。
ブルネリーの部屋がやってくる。301から見て、青ひげは正面のクローゼットに潜んでいた。207から見ればそのクローゼットはまさに手前にある。合わせ鏡のようになっているこのミラーガラスのすぐ横だ。音もなく入り込めば、うまくいけば気づかれずにすむ。
鏡の枠に腕をかける。力をいれて持ち上げるとぐっと浮いた。落とさないように堪えながら枠を床に降ろした。そっと床に立つ。いつものぞき窓越しに三年間見つめ続けてきた部屋に俺は今立っている。
目の前のベッドシーツに包まりたい衝動を抑えながら、左横にあるクローゼットにゆっくりと向いた。
ごくりと唾を飲む。鉄パイプを握りしめてクローゼットを開ける。この男と目が合ったのは確かこれで三回目だ。そんなことを考えながら俺は腕を振り下ろした。
男は手に刃物を持っていた。奪おうとして俺は腹を刺された。俺は崩れ落ち、鉄パイプは男に蹴り飛ばされた。俺はあちこちをまさぐって、手にブルネラの鉢植えをつかむと、夢中になってそれを粉々に砕けるまで殴りつける。
体中からどんどん力が抜けていく。俺は気づくと床に倒れ伏していた。隣では青ひげの男もピクリとも動かなくなって、頭から血を流している。
ベッドの下から誰かが出てくる。俺の視線の先に黒髪のきれいなブルネリーが立っていた。
ああ、いたんだ。隠れていたんだね。無事だったんだ……。
目の隅にブルネラの鉢植えが映る。
ごめん……、君の大切な分身が粉々になってしまった、本当にごめん、でも君が無事でよかった。
俺はほっとして口を開き、声をかけようとしたが、ごぼっと喉奥から鉄っぽいものがこみあげてきて言葉にならなかった。
彼女の足が近づいてくる。
「あんたも同罪なのよ」
俺は耳を疑った。なんのことだ。彼女の声は血が通っていないように冷淡だった。
ブルネリーは床に落ちたナイフを右手で取り上げて、冷たい目で俺を見おろす。
彼女の白いスニーカーがブルネラの鉢植えを踏みつけていた。靴を、履いている……。手には白い手袋がはめられていた。
「まあでもお礼を言わなきゃね、こいつをやってくれて」
「……いったい、どうして……」
俺はかろうじてそう言った。
「知りたい?」
腹からどくんどくんと血があふれ出す。
「あんたも早苗のこと、つけ回してたんだってね。この部屋のありえなさ以上に、ここに通うあんたたちに、この世で一番反吐が出るわ。わたしは早苗にこの部屋のことを聞いた。どうやら鏡の向こうに部屋があるみたいだって。動いている部屋なんてありえないと思ったけど、あれはのぞき部屋になってるはずだって、あの子はすぐに気づいてた。あんたよ、あんたがあれこれしたおかげであの子はやられた。あんたが沈黙の管理人の支配妄想に火をつけたのよ。わたしはあんたたちを許さない」
ブルネリーは俺の胸を一突きすると、ぐりっと右に手首をひねった。そう、パーテルノステルが観覧して頂点から落ちていくように、ぐりっと、右に……。
彼女はナイフを突き刺したまま手を放し、ミラーガラスを振り返ると、ふっと笑って、
「ねえ、わたしの脚は気に入ってた?」
そう言ってどこかに電話をかけた。
「ああ、早苗? 仇はうったよ」
ブルネリーが膝を抱えて電話をかけていた姿が脳裏に蘇った。視界が斜めに歪む。俺の口から溢れ出した血しぶきが、踏みつけられて散らばった白いブルネラの葉にかかり紅い花火のように染まっていた。
冬の天使の涙のあと……クライマックスに重なる丸く激しい円弧のように……打ち上げられた君の花火はどんな色で咲くのかな……。
彼女は静かに部屋を出て、しばらくするとパトカーのサイレンが鳴り響いた。
俺はかろうじて命を取り留めたが、パーテルノステルは摘発され、俺はムショに送られた。部屋の借主は偽名で見つからず、俺の話は信じてもらえなかった。青ひげが録りだめていたはずのブルネリーの盗聴記録も丸ごと消えていたという。
もこちゃんは確かに存在していたようだったが、本人が証人拒否をしたらしく、裁判で俺を擁護してくれるものはなにもなかった。俺の人生は、壊れた観覧車みたいに二度と上を向くことはなく、あの小さな闇の箱のはざまに散っていった。
《了》
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