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信じるところから始まる。
開路が導かれるとすれば、それは信じるところから始まる。
疑いの心や敵対心から、それは決して生じず、自らの心と周囲の状況を泥沼に落とすのみーーと、感じるけれども、疑いの心は新しい発見を導くこともあるし、疑いをつぶすための努力は、己を強くしたり、自身を認める内包的な客観力を培うことも多い。
ややこしい文章になってきてしまったけど、ここ最近の私は、対環境に対する否定的な気持ちが沸き上がるたびに、それを肯定できうるものへと置き換える努力を続けてきた。いえ、偉そうに書いてるけど、全然そんなんじゃなくて、そうしないと自分が闇に簡単に落ちてしまうからどうしようもなくそうするしか生きるための呼吸を続ける方法がないのであった。あーややこしい、ややこしい文章。文法考えたら間違いだらけ、仮に文法に間違いがないとした場合、なにこれ読解テスト?ってくらいのわけわからなさだ。だけれど、これが私の頭の中なんだからしょうがない。
他人を信じて頼れる人というのは、鈍感力に通じる力強さを持つ人だと思う。もちろん迷いはあっても、自分で何とかしようとする努力を怠ってはいないとしても、ここぞというところで、信頼する何かに、大切な決断をゆだねることができるということの、むずかしさを、私は常に感じてきた。それはとどまるところ、根の深い部分で他人を信じず、なんでも自分で答えを導き出し、解決しようとするし、そのためのアプローチもする。自分の知恵や知己というものに対する自信や信頼が強い、といってもいいし、自分のことはわかるけど、自分以外のことは決してわかりようがないという、圧倒的自他間の距離や乖離を認めている所以でもある。
自分のことは信じられるけど、人のことは信じられない。たぶん、私のこの根っこは、どうにも腐ってはくれない。この身の奥深くに延々と潜み続ける。
それでも、他を信じなければ、あらたな道筋は決して開かないのである。
そしてそれが必要な出来事に、ここしばらく、直面し続けているらしい。自分の枠の中で終わらせることは簡単で、それは納得も整理も付きやすく、後悔もしづらい。
自分の枠を超えて、だれかに何かをゆだねることはとても困難で、納得や整理がつきづらい。激しい後悔もするかもしれない。
これまで生きてきて、後悔、という感情はないといっていい。それは何かに流されるでもなく、善も悪も、全部自分で決めてきたことだとわかっているから。何か自分に不具合が舞い起こっても、どうして私が?とも感じたこともない。
でも今、「後悔」がとても怖い。自分の枠を、自分の枠以上に広げ続ける努力をしながら、「後悔」しないという選択を積み重ねることの恐ろしさに、私の中心がねじ切られる思いだ。
自分以外の誰かにとって、これがわけのわからないことに間違いはない。でもなんとなく、わかるかもと思う人もいるかもしれない。私の状況を知っているごくごく一部の人であれば、そっか、と感じ取ってくれるのだろうとは思う。
自分が、複雑で、いや、だれもが複雑なんだけど、簡単にすることが、激しく苦手なんだ。
そんな夜。
コメント
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おお、、すごくノランさんっぽいお話ですね。。
久々にこういう語り口が見られて、ノランさんの生存と存在をしっかりと確認した想いです…
しかし、開かれるかもしれない路が現れていること自体は良い出来事ですね。
いや、悪い出来事になるかどうかは、未だわからないですけど、寄り道すら現れないトンネルだと、淡々とし過ぎるから、たまに怪しい扉とかあった方がダンジョンみたいで。
(これを楽しめる人がまさに鈍感なんだろうけど…)
でも、ノランさん生きてるんだなー、と思ったら、とても嬉しくなってしまいました。
後悔は納得するまで進み切れば後悔にならないらしいと聞きますし(そういう次元の話じゃないのはわかってるんですが)。
どんな扉でも、正道でも王道でもない寄り道でも、光が差し込んで道草が生えてるような楽しみのある路でありますように。
健康と幸運を祈っております。
良き2022年でありますように。
#雑なのに長文ですいませんw