© 虹乃ノラン All rights reserved.
能動的”生きる”、と、受動的”生きる”、について
1)一年前の今日、私は生きていた。
2)二年前の今日、私は生きていた。
3)今日、この瞬間の今日、私は生きている。
この三つには、はっきりと違いがある。1)には、「~らしい」と言葉を足そう。2)には、「覚えてないけど」と補足を足そう。3)には、強く断定的な、意思のある強みのある音感を足そう。
今日はスーパーの総菜の寿司と、氷で薄めたワインを飲んだ。ワインは氷で薄めても、寒いとは感じない程度には日差しは暖かい。数日前まで続いていた近所のビル解体工事による震度2くらいの心地悪い揺れは今日は無い。3匹の猫はそれぞれに思うがままの場所を選んで昼寝をしている。
私はーーThinkpadX1を膝に乗せて、液晶ディスプレイは180℃の開き。傍らに、ドラえもんの映画がBGMの代わりに流されている。映像は、左目の端には映りこんでいるし、音声も右脳の隅っこでは捉えているから完全なるBGMってわけでもない。それでもあんまり理解はしてなくって、まあ潜在学習程度の影響力なのかな。でも、流していることを選択しているここ最近の自分。
これを更新している理由は今日は書かない。だけど、一年以上ぶりにここにアクセスした、という事実をとても肯定的に受け止めている自分への日記として、少し保存しておこうと思う。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
清流の国ぎふショートショート文芸賞 受賞式・講演会へ行ってきました。
清流の国ぎふショートショート文芸賞の授賞式と、特別審査員を務められた米澤穂信さんの講演会に参加するため、岐阜県図書館に行ってきました。 …
この記事へのコメントはありません。