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〇〇ではないこと、に幸せを憶えよ。
ふと。
今月は余裕があるんです。っていうか、さぼっているわけですが。
1月は実際がんばりました。一日の区切りがわからないほどに、寝ていなかった気がします。来月は同じように、寝ない日々が訪れると思いますといいますか、そのつもりでおります。必死になる必要性というのは、人それぞれであって、ただ自分がそうしたいからだというに、過ぎないのですが。
さて、ふと参りました。次作のテーマを調べるにつれ、それが大変に重いテーマであり、おおむね扱っている題材は、命や愛や恨みや、諸々人間が人間であるゆえの根源であるものではあるので、重い、というのは、避けられないものでは常々あるのではありますが。
改めて、命と、健常ということについて、ふと書き留めに参りました。
明日、死ぬ心配をしていないこと。
明日、倒れる心配をしていないこと。
こうありたい、こうしたい――願いを思い煩うことでなく、こうではないこと――ということに感謝をするとして、その感謝は誰に対して向ければよいのでしょうか。
キリスト教の世界であれば、仏教の世界であれば、なにかしら、神を信じているならば、人は、自分が平和であることを、与えられた享受であると考えるかもしれません。
日本では、神道――実際には、八百万の神の神道の精神が底辺に息づいている国ではあるけれども、なにかに感謝する――という精神には、程遠い国民性を持っているのではないかと、思っています。
それは、自分自身も含めての、ことです。
自分が今、病気ではないこと。
自分が今、戦争をしていない国に、住んでいること。
自分が今、誰かに殺される気配を憶えていないこと。
自分が今、明日食べる食べものに、少なくとも困ってはいないこと。
忘れてはならないというよりも、常に、留めておかなくてはならないことは、わたしたちは、ありえないほどに平和で、犠牲と並んでいないということです。自分が食べる食物の命さえ、自分で殺めなくても済むのです。大げさに聞こえるでしょうが。
わたしは、一時期かなり厳密なベジタリアンをやっていました。ただし、生きる上で、動物の命を摂取することや、人間が、人の社会で、医学を進歩させるために、動物実験をゼロにせよと、宣うこともしてはいません。必要悪といってしまうと、偽善かも知れませんが、生きる上で、なにかしらの存在に対して、すべての存在は、悪であるはずだからです。
自分は悪です。
ただし、なにかしらの存在にとっては、善でいたい。
おそらく。
悪であることを認めたうえで、限られた生を生きる。それが、命ということかもしれないと、ふとわめきたくなったわけで。
おじゃまいたしました。
ニジノ。
清流の国ぎふショートショート文芸賞 受賞式・講演会へ行ってきました。
清流の国ぎふショートショート文芸賞の授賞式と、特別審査員を務められた米澤穂信さんの講演会に参加するため、岐阜県図書館に行ってきました。 …